私は新型コロナウィルスによるパンデミックによって監視社会について思い知らされたことがある。
 コロナ対策に乗じた政府および国際政治権力による監視追跡、監視強化だ。
 国情によって干渉の仕方はさまざまに異なるので適否の評価もさまざまだ。
 また、SNS濫用の大衆による相互監視警察もある。
 上下左右からのさまざまな誹謗中傷にさらされて不安感増大だ。
 ジョージ・オウエルの「1984年」さながらの恐怖社会だ。
 そこに書かれた以上の超監視社会だ。
 問題は誰が監視しているのかが見えなくなっていることだ。
 コロナに限らず、法人も個人もこの恐怖から逃れることはできない。
 家族・親族でさえ同様だ。
 アダム・スミスの「見えざる手」は「市場」が個人の行動を制約していることも言っている。
 なぜなら、「分業」による合理性は監視体制によって全うされるといってよいからだ。
 この監視体制によって全うされる「分業」の最も顕著なことは「性差」といえる。
 男女の差だ。
 これは一方だけにとっては「分業」だが、協同の行為によってはじめて新たな生命を宿すことができる。
 これは生きとし生けるものに共通する。
 そして、ジェンダー問題について誤解と差別を生じさせているのは人間だけだ。
 同時にその問題解決に向かって真剣に取り組んでいるのも人間だけだ。
 人は他の生物に勝って「知恵」を活かせる能力があるからだ。
 かんじんなのは、その能力を阻む要因としてのジェンダー問題を正しく理解することだ。
 ダイバーシティやフェミニズムと取り組むことも一法だが、単に男と女の問題にしないことだ。

 仲間同士による「知恵」の継続的共創プロセスには監視・中傷はない。
 共創する仲間の「知恵」に基づくもので持続可能性を有するものとなる。
 そうすると、「知恵」を共創する仲間は監視社会から跳躍することができるといえる。
 社会、病理、法を超越した真摯な生きざまを有することに勝るものはない。
 仲間の「知恵」のこのような活用は正に「ゆたかな生活」への王道と言えよう。